第135話 『諷誦文』の唱導をいつか聴く日 (06.07.13)
第134話 K・D・ラングの『カウガール・ブルース』 (06.06.15)
第133話 『国境の南』ーバハカリフォルニア (06.05.16)
第132話 朝日の中 下北『かもめ』は翔ぶ (06.04.13)
第131話 伝播する『花心』の基礎体温 (06.03.09)
第130話 『吾唯知足』の教えに行雲流水する (06.02.01)
第129話 新年を繋ぐ交感神経作用 (06.01.06)
第128話 『アルフェンティーナ』の月ヶ瀬幻視行 (05.12.05)
第127話 ミドリブタと歩く街流れる歌 (05.11.02)
第126話 昭和を記憶する『夢であいましょう』 (05.10.01)
第125話 『禁断の果実』を求めてジャズの茨の道へ (05.09.06)
第124話 色即是空と『グラナダ』食い合わせ (05.09.06)
第123話 『ラプソディ・イン・ブルー』の不意打ち、『草原情歌』の余韻 (05.07.05)
第122話 『何日君再来』を君と聴く日 (05.06.03)
第121話 『般若心経』を教科書で読む日 (05.05.10)
第120話 下北ノイズの生まれる街で (05.04.01)
第119話 『ホエン・アイ・ワズ・ヤング』は今歌えない (05.03.04)
第118話 ヴェトナム人が見る『ジョージア』の夢 (05.02.01)
第117話 『ゴジラ』の年からヒロシマの年へ (05.01.01)
過去コンテンツも徐々に掲載します。


大木雄高 おおきゆたか
1945年生まれ。大学時代から小劇団を組織し、60〜70年代の同時代演劇を、作・演出・役者として手がける。78年以降は定期ライブのほか、「下北沢音楽祭」、「松田優作追悼コンサート」等をプロデュース。下北沢"LADY JANE"オーナー。"音曲祝祭行"は"音曲祝祭考"としてアサヒグラフ誌に98年1月から6月まで計24回を連載していたものを、連載終了を期に装いも新たに自主制作版とWEB版で復活させたもの。




"音曲祝祭行"は下北沢"LADY JANE"にて月1回部数限定で発行しています。
 前号に続いて5月1日も暇な京都だった。旅中ではさすがに朝の目覚めは早い。宿の誉田屋源兵衛で簡単な朝食を作ってもらい、かねてから予定していた東山の知恩院へと向かった。烏丸御池から地下鉄に乗り東山で降りて、三条通から神宮道ではなくて小運河の白川沿いを下ると、人家の家並に挟まれて両岸の枝垂れ柳が色鮮やかに、水面が朝の陽に映えて美しい。街の中の人と川の寄り添った姿がある。左に古門(女門)が見えてきて、昨日はここから参内したが、夕刻五時近くだったので本堂は閉じてはたせず、近くのあやめが群舞する青蓮院、ねねの高台寺で帳尻合わせたが、再挑戦のこの日は正面から参る事にした。東大路通に出てここから東山に向うと、真正面に知恩院の三門が見える。
 ここ二年で京都は春、秋、春、秋、春と五度目だった。尤も仕事で次の地に移動せねばならず、街といえば宿かホテルの近くをせいぜい一時間弱隙をみて散策する程度だったので、スケジュールミスで生じた今回の空き日は、京巡りに絶好だった。一昨日も東京で旧知だったNHK京都の上野智男の案内で、比叡山を下りた法然がまず習学したという浄土宗大本山の金戒光明寺、通称黒谷に登り、真正極楽寺から寂れた佇まいが逆に凛とした威厳を漂わせる真如堂を巡り、芍薬寺と呼ばれる程の大輪の芍薬にド胆を抜かれた。次いで吉田神社を通り抜け、京大西部講堂に青春をチラッと思い浮かべ、出町柳まで周遊した。
 知恩院を表象する三門をまずくぐる。そして階段を百数十段上がると、広大な境内に荘厳とした幾つかの伽藍が立ち並んでいた。その右手の山道を登ると大鐘楼があって、即ち昔の記憶が甦った。
 1964年、広島には帰らないと決めて東京に出て来たが、ある事情で夏か正月に年に一度は帰省することを自分に義務づけていた。東京駅発深夜〇時前後、12月30日にその各駅停車に乗る。岐阜の先の大垣行きだ。大垣に八時過ぎに着くと、長い間待たされた後乗り換え便が京都に昼頃着いた。ブルートレーンの雄あさかぜにでも乗りたかったが、そうも行かなかった。元同級生は何人か京都にいたが、俺がよく訪ねた友は立命館大だったので、西北の方角に住んでいた。寺で言えば竜安寺、仁和寺、金閣寺などよく行った。時は大晦日だ。夜になると先斗町か寺町に出掛けて酒で時間を遺り合い、除夜の鐘を待って鐘の有りどころ知恩院に向うのだ。その後は隣の八坂神社で、朮を焚いたその火を火縄に移して持ち帰り、それを火種に若者が侘しく雑煮を作って食うのだ。そんな風に総本山と八坂神社を遊び場にして、広島に元旦の昼に帰るのだが、大学時代それを数回繰り返した。
 時は経って、一人暮らしの母が、毎年広島から京都の知恩院まで、回向の参拝を繰り返していたのを知ったのは、81年、息子の俺と同居するため、引っ越しと迎えに広島に帰った際、生前戒名を賜る程参内していたことにショックを受けたからだった。母が参拝していたのは、「御忌」といって法然上人の忌日法要だった。別名俳句の季語にもなっている「法然忌」で、毎年4月18日から25日迄行われている仏事だった。
 大鐘楼を下り境内の伽藍の中でもひときわ栄える、その「御忌」が行われる御影堂に参拝する。風雨にさらされた周囲を巡る幅広い外廊下は、殆ど山道と化したかのような自然でありながら、“自分は今、結界に立つ”思いを反芻しつつ畏怖心を払拭し切れないでいると、御影堂内では日中法要が行われていて、多くの善男善女が堂に入って行き、その多くの檀信徒が隅の社務所で追善供養を申し出て切れることがない。そこで他人の追善供養の読経や鉦や太鼓に耳を委せていると、それはひとつの艶やかな音となって身体に入り込み、
気持ちの塊が溶けていくと同時に、
時間の概念が無くなっていく。
俺は随分いい気になっていた。
そして法然上人八百年大遠忌を2011年に控えた「八百万人念仏結縁」符を、亡き母の戒名を添えて申し込んだ。結縁冥加料一枚千円。これで「『月影』のながむる人の心にぞすむ」を叶えようかと、40年を経て試みた知恩院への初の仏事ではあった。




このHPに関するご意見、ご感想、ご連絡はこちらからどうぞ。