第150話 映画よ あれがシモキタの灯だ (07.10.15)
第149話 「ロンリー・ウーマン」はトリガーに指を掛けた (07.09.04)
第148話 P.グラスの鉱物的ミニマル交感 (07.08.03)
第147話 今から『風をあつめて』おくために (07.07.03)
第146話 『MASAЯA SCOPE』は土空火水を駆ける (07.06.02)
第145話 『ゲンズブール委員会』への招待状 (07.05.08)
第144話 CAVA BIEN?『MASARA』 (07.04.05)
第143話 ボリス・ヴィアン気取りの『北京の秋』から始まる (07.03.08)
第142話 〈美しい国〉から『七福神の歌』が聞こえる (07.02.01)
第141話 『井戸の茶碗』なる地縁血縁 (07.01.05)
第140話 歌っとくれよ「ゴンドラの唄」を (06.12.05)
第139話 正調『満月の夕』が浸みた。 (06.11.01)
第138話 沖縄―アイヌを結ぶ『シンクロニシティ』 (06.10.10)
第137話 『八月の種』の種撒き唄を歌って (06.08.31)
第136話 「檸檬」と『セントジェームス病院』と (06.08.02)
第135話 『諷誦文』の唱導をいつか聴く日 (06.07.13)
第134話 K・D・ラングの『カウガール・ブルース』 (06.06.15)
第133話 『国境の南』ーバハカリフォルニア (06.05.16)
第132話 朝日の中 下北『かもめ』は翔ぶ (06.04.13)
第131話 伝播する『花心』の基礎体温 (06.03.09)
第130話 『吾唯知足』の教えに行雲流水する (06.02.01)
第129話 新年を繋ぐ交感神経作用 (06.01.06)
第128話 『アルフェンティーナ』の月ヶ瀬幻視行 (05.12.05)
第127話 ミドリブタと歩く街流れる歌 (05.11.02)
第126話 昭和を記憶する『夢であいましょう』 (05.10.01)
第125話 『禁断の果実』を求めてジャズの茨の道へ (05.09.06)
第124話 色即是空と『グラナダ』食い合わせ (05.09.06)
第123話 『ラプソディ・イン・ブルー』の不意打ち、『草原情歌』の余韻 (05.07.05)
第122話 『何日君再来』を君と聴く日 (05.06.03)
第121話 『般若心経』を教科書で読む日 (05.05.10)
第120話 下北ノイズの生まれる街で (05.04.01)
第119話 『ホエン・アイ・ワズ・ヤング』は今歌えない (05.03.04)
第118話 ヴェトナム人が見る『ジョージア』の夢 (05.02.01)
第117話 『ゴジラ』の年からヒロシマの年へ (05.01.01)
過去コンテンツも徐々に掲載します。


大木雄高 おおきゆたか
1945年生まれ。大学時代から小劇団を組織し、60〜70年代の同時代演劇を、作・演出・役者として手がける。78年以降は定期ライブのほか、「下北沢音楽祭」、「松田優作追悼コンサート」等をプロデュース。下北沢"LADY JANE"オーナー。"音曲祝祭行"は"音曲祝祭考"としてアサヒグラフ誌に98年1月から6月まで計24回を連載していたものを、連載終了を期に装いも新たに自主制作版とWEB版で復活させたもの。




"音曲祝祭行"は下北沢"LADY JANE"にて月1回部数限定で発行しています。
 
 2003年7月2日、「レディ・ジェーン」に映画衣装の宮本まさ江とメイクの小沼みどりがやって来た。折り入って話があると言う。映画界を支える女丈夫のワンツー・コンビがバーの親父に何事なのかと伺うと、「シネマ下北沢」映画館のことだった。宮本まさ江はその映画館のオーナーでもあった。「その年の暮れで五年続けてきたことになるが、今年一杯で手を引こうと思っている」とのことで、ついては映画館は閉めたくないので、引き継いでくれる人を捜してはくれまいか、という相談だった。
 かって下北沢には四つの映画館があった。北口の今のみずほ銀行が主に日本の娯楽映画を上映していたグリーン座、洋服のゼンモールがエロも含めた作家系映画の下北沢映画劇場、南口には今のダイエーにあったピンク映画の北沢エトワールと、ハリウッド系洋画のオデオン座だった。オデオン座は辛抱強く八十年代まで開けていたが、後年は洋画ポルノの一本槍だった。この南口と北口を繋ぐ地下道があって、いつもジメジメしていて灯は無くて、通行を憚る怪しげな空気に満ちていた。住人だった萩原朔太郎がかって名付けた猫町のワンシーンだった。エトワールのその周辺には、上野・新宿・池袋の東京三大不夜城に対して、蒲田・五反田・下北沢とその通の人たちの裏番を支えていたピンクサロン街が軒を連ねていた。全国的に映画の斜陽化が急激に進んだ時代だった。いずれにしても約四十年前のことだった。神戸から上京して下北沢っ子になっていったトランペットの沖至が、バリバリとフリー・ジャズを掻き鳴らし、吉増剛造が“ああ 下北沢裂くべし 下北沢不吉/二月十日 朝 下宿のこの部屋で 次々に 恐怖がひらく/ここに湖がない”と詠じ、六十年代後半の時代、
詩人をそこまで想像させる魅力を
下北沢は放っていたのだ。
 98年12月24日、シネマ下北沢は非常設だがたまにドキュメンタリー映画などを上映していたスズナリ横丁の一角を、映画美術スタックたちで映画館に改造してオープンした。前々日の夜に現場で内覧レセプション・パーティがあり打上げは「レディ・ジェーン」だった。映画界の多士済々が足を運んだが、店内は人で埋まり通勤電車並みの様相を呈した。その状態こそ正にシモキタらしさだと思った。つまり、だだっ広い空間に人気者や金やマスコミ宣伝で集まるのではなく、
映画と映画館を愛する者たちが
平ぺったく集いくるという有り様についてだ。
「シネマ下北沢」は翌年から本格稼働して、「映画の企画から製作・配給・興業までを行う」という当初の映画館の目的を、「ざわざわ下北沢」(00年 市川準監督)や競作の「刑事まつり」で実現したが、館経営は一年三六五日の苛酷労働だ。本職と兼業は話を聞くより大変だったことは容易に推測出来た。かって映画の街だった下北沢が八十年代初頭から演劇の街に移行していったのは特徴的事実だが、そんな下北沢の街に映画の明かりを灯して五年近く続行して来たのだ。宮本まさ江とは日々話を重ねて行けば行く程、易々と出資者を見つければ良いといった話ではない、という確信が昴まってきた。俺の考えた構想はざっと以下のようだった。
○現行シネキタのコンセプトを踏襲する。
○下北沢の街の延長にある映画館であること。
○若手の才能を発掘していく。
○岩本光弘(現支配人)を支配人に置くこと。大木を監修的立場に置くこと。
 概ね以上の四点を条件に捜し始めた。
 様々な人に相談に乗ってもらった。昔独自の映画館構想を俺に話しかけたことを思い出して、ぴあの矢内廣を映画の霊が沁みた西麻布のバーに呼び出して、篤と相談を聞いてもらったりした。そのバー、クレイドルはこの七月に閉店した。シネキタの一年後には短篇専門映画館のトリウッドが出てきていたが、折角灯した映画の灯を消したくはなかった。その思いと同時に新小屋主が、四点の条件を満たしてくれるとなると、俺の観点からすると皆ペケになってしまった。宮本まさ江が『赤い月』(降旗康男監督)の中国ロケから戻ってくる十月下旬を期限としたものの、俺は焦りに焦った。岩本光弘は落胆しきっていた。今四年目を走行中の「シネマアートン下北沢」のリニューアル・オープン前夜は、こんな有り様だった。
 甲本ヒロトの『不死身の花』をカバー曲に入れた佳村萠のアルバム・レコーディングを直後に控えた金木犀の頃だった。

 

 

 




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