第156話 シモキタに江戸前の風が未だ吹いている。 (08.4.4)
第155話 『如露亦如雷』の響、海峡を渡る。 (08.3.1)
第154話 街のすきま風をジャズが塞いだ時代があった (08.2.8)
第153話 英哲の『若沖』で年は越してはみたが (07.12.28)
第152話 『さくらんぼの実る頃』は愛の悲しみ (07.12.11)
第151話 下北沢に『不死身の花』が咲くころ (07.11.05)
第150話 映画よ あれがシモキタの灯だ (07.10.15)
第149話 「ロンリー・ウーマン」はトリガーに指を掛けた (07.09.04)
第148話 P.グラスの鉱物的ミニマル交感 (07.08.03)
第147話 今から『風をあつめて』おくために (07.07.03)
第146話 『MASAЯA SCOPE』は土空火水を駆ける (07.06.02)
第145話 『ゲンズブール委員会』への招待状 (07.05.08)
第144話 CAVA BIEN?『MASARA』 (07.04.05)
第143話 ボリス・ヴィアン気取りの『北京の秋』から始まる (07.03.08)
第142話 〈美しい国〉から『七福神の歌』が聞こえる (07.02.01)
第141話 『井戸の茶碗』なる地縁血縁 (07.01.05)
第140話 歌っとくれよ「ゴンドラの唄」を (06.12.05)
第139話 正調『満月の夕』が浸みた。 (06.11.01)
第138話 沖縄―アイヌを結ぶ『シンクロニシティ』 (06.10.10)
第137話 『八月の種』の種撒き唄を歌って (06.08.31)
第136話 「檸檬」と『セントジェームス病院』と (06.08.02)
第135話 『諷誦文』の唱導をいつか聴く日 (06.07.13)
第134話 K・D・ラングの『カウガール・ブルース』 (06.06.15)
第133話 『国境の南』ーバハカリフォルニア (06.05.16)
第132話 朝日の中 下北『かもめ』は翔ぶ (06.04.13)
第131話 伝播する『花心』の基礎体温 (06.03.09)
第130話 『吾唯知足』の教えに行雲流水する (06.02.01)
第129話 新年を繋ぐ交感神経作用 (06.01.06)
第128話 『アルフェンティーナ』の月ヶ瀬幻視行 (05.12.05)
第127話 ミドリブタと歩く街流れる歌 (05.11.02)
第126話 昭和を記憶する『夢であいましょう』 (05.10.01)
第125話 『禁断の果実』を求めてジャズの茨の道へ (05.09.06)
第124話 色即是空と『グラナダ』食い合わせ (05.09.06)
第123話 『ラプソディ・イン・ブルー』の不意打ち、『草原情歌』の余韻 (05.07.05)
第122話 『何日君再来』を君と聴く日 (05.06.03)
第121話 『般若心経』を教科書で読む日 (05.05.10)
第120話 下北ノイズの生まれる街で (05.04.01)
第119話 『ホエン・アイ・ワズ・ヤング』は今歌えない (05.03.04)
第118話 ヴェトナム人が見る『ジョージア』の夢 (05.02.01)
第117話 『ゴジラ』の年からヒロシマの年へ (05.01.01)
過去コンテンツも徐々に掲載します。


大木雄高 おおきゆたか
1945年生まれ。大学時代から小劇団を組織し、60〜70年代の同時代演劇を、作・演出・役者として手がける。78年以降は定期ライブのほか、「下北沢音楽祭」、「松田優作追悼コンサート」等をプロデュース。下北沢"LADY JANE"オーナー。"音曲祝祭行"は"音曲祝祭考"としてアサヒグラフ誌に98年1月から6月まで計24回を連載していたものを、連載終了を期に装いも新たに自主制作版とWEB版で復活させたもの。




"音曲祝祭行"は下北沢"LADY JANE"にて月1回部数限定で発行しています。
 
 1975年1月に「レディ・ジェーン」をオープンした当時、ここ茶沢通りに面した代沢三叉路近くには店らしい店は無かった。三叉路を鋭角に右折して南口商店街方面に向うと、定食屋の伽羅とおでん屋の万上酒場、焼鳥屋の一力があった位だった。そんな場所にポツンとジャズ・バーを出したのは、通りすがりの客ではなくて行きたいと思って来てくれる人だけの店にしたいという思い上った自負心があったのと、南口で言えばその代沢三叉路までが下北沢と言える得手勝手な認識があった。ところが「レディ・ジェーン」を遡る二・三年前に、三叉路を三軒茶屋方面に二・三分歩いた先に、銀座からやって来た非常に気になる鮨屋が出来ていた。只暖簾からして人をそうそう寄せ付けぬ風情の鮨屋をくぐる程の羽振りも金銭も無かった。只の貧乏小劇団の座長に過ぎなかった。で、店をオープンしたら思い切って戸を開けてやろうと心の中で思っていたのだ。
 04年5月27日、「小笹寿し」のクソ頑固親父岡田周三翁が亡くなった。享年79歳だった。02年の暮れに引退していて、暖簾は長年親父の下で修行を積んだツトムこと西川勉が継いでいる。七五年の春、初見の客となって何やかや30余年の付き合いだが、当初はたまに、それと相当意を決して入っていたので、親父と親しく口を聞くなどはしなかった。80年代に入ってから或る日、やはり「小笹寿し」の客だった脚本家の筒井ともみとカウンターに座った時のこと。その毒舌振りで、すごすごと帰っていって二度と戻ってこない犠牲者という客が多々いるクソ親父と、彼女はため口を聞いているではないか?! 「小笹寿し」は当然江戸前だが、何故下北沢と言えないはずれに移って来たのか今だに知らないが、銀座の名店と謳われて当人もチャキチャキの江戸ッ子だった。筒井ともみは終いの方になると、こともあろうに鮨ネタに飽きたとばかりに、山葵の千切りと擦ったサビを巻いたサビ巻きを注文するのだ。俺には出来ない芸当だ。続いて「田麩巻き頂戴」などと言うと、クソ親父は「女がデンブなんて言っちゃいけねえや、おぼろと言いなさい」と言いつつ顔をニヤかして、女にゃ手巻きは作らないはずの田麩巻きで仕上げるのだった。親子ほど歳が離れていても、江戸ッ子同志の気の合い方を観た。広島出身の俺の割り込む余地は無かったが、それを契機に肩の力が抜けて「小笹寿し」に通う態度が変わった。出前も自宅に取るようになった。誰れ彼れと人を連れて行くようになり、親父のクソが取れた。
 日比谷で鮨の修行をしていた若者を連れて行ったことがある。俺は酢加減が絶妙な小肌から入るのが常だが、鮨旅の中途には必ず穴子がある。生穴子の生地焼きだから雉焼きという。去年の暮れ雪の奥志賀に所用で出掛けた折、ホテルから一時間強車を走らせると、三水という地に立派に「菊寿し」二代目を継ぐ中野菊夫はいた。奥長野の田舎で毅然と江戸前をやっているのだ。おまかせしていると、特製タレと共に焼き付いて香ばしさが一入の雉焼きが供されるではないか! 付け場で菊夫がニヤッとしている。「黒姫山のニコルは来てるか?」と言うと、「理由にない金を受取る訳にはいかないと言うと暴れて。出入り禁止です」と来た。
「気っ風まで江戸前たぁ、快哉!
 又、松田優作と行った何回目かに親父が黙りを決めた日があった。店を出て「何なんだあの親父」という程機嫌が悪かった。後日その件を質すと「うむ、吉永小百合と濡れ場をやっていたからな」と理由を言った。映画『華の乱』のことだ。その優作の初七日に黒田征太郎と待ち合わせをした。俺は「彼は小笹で鮨を食べることは禅だと言ってましたよ」と告げると、そんな天衣無縫な親父が神妙になって、帰り際に御霊前にと折を預かった。それは立派な水引きが施された熨斗紙には、安田靭彦の書なる見慣れた小笹寿しの屋号が、目を射るほど鮮やかだった。
 待っている客がいた時の小沢昭一の天晴れな対応や、カウンターと反対側の上がり框の壁の1m近いアラ(釣り人用語では諸子というらしい)の魚拓の主、萬屋錦之助や、彼女をナビゲート出来ない知ったかぶりの若者への親父の態度など、遭遇しちまったエピソードには切りが無いが紙面の都合が有る。とまれ、親父がこだわった江戸前の風は、いま勉の「小笹寿し」にまだ吹いている。
 握ったらすぐ食べろ!!

 




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