第160話 『シネマアートン下北沢』の鳴動 (08.9.9)
第159話 三千世界の鴉を殺し 主と朝寝がしてみたい (08.8.1)
第158話 『いつかギラギラする日』にラスト・ダンスを (08.7.8)
第157話 今様『梁塵秘抄』に戯れて (08.5.2)
第156話 シモキタに江戸前の風が未だ吹いている。 (08.4.4)
第155話 『如露亦如雷』の響、海峡を渡る。 (08.3.1)
第154話 街のすきま風をジャズが塞いだ時代があった (08.2.8)
第153話 英哲の『若沖』で年は越してはみたが (07.12.28)
第152話 『さくらんぼの実る頃』は愛の悲しみ (07.12.11)
第151話 下北沢に『不死身の花』が咲くころ (07.11.05)
第150話 映画よ あれがシモキタの灯だ (07.10.15)
第149話 「ロンリー・ウーマン」はトリガーに指を掛けた (07.09.04)
第148話 P.グラスの鉱物的ミニマル交感 (07.08.03)
第147話 今から『風をあつめて』おくために (07.07.03)
第146話 『MASAЯA SCOPE』は土空火水を駆ける (07.06.02)
第145話 『ゲンズブール委員会』への招待状 (07.05.08)
第144話 CAVA BIEN?『MASARA』 (07.04.05)
第143話 ボリス・ヴィアン気取りの『北京の秋』から始まる (07.03.08)
第142話 〈美しい国〉から『七福神の歌』が聞こえる (07.02.01)
第141話 『井戸の茶碗』なる地縁血縁 (07.01.05)
第140話 歌っとくれよ「ゴンドラの唄」を (06.12.05)
第139話 正調『満月の夕』が浸みた。 (06.11.01)
第138話 沖縄―アイヌを結ぶ『シンクロニシティ』 (06.10.10)
第137話 『八月の種』の種撒き唄を歌って (06.08.31)
第136話 「檸檬」と『セントジェームス病院』と (06.08.02)
第135話 『諷誦文』の唱導をいつか聴く日 (06.07.13)
第134話 K・D・ラングの『カウガール・ブルース』 (06.06.15)
第133話 『国境の南』ーバハカリフォルニア (06.05.16)
第132話 朝日の中 下北『かもめ』は翔ぶ (06.04.13)
第131話 伝播する『花心』の基礎体温 (06.03.09)
第130話 『吾唯知足』の教えに行雲流水する (06.02.01)
第129話 新年を繋ぐ交感神経作用 (06.01.06)
第128話 『アルフェンティーナ』の月ヶ瀬幻視行 (05.12.05)
第127話 ミドリブタと歩く街流れる歌 (05.11.02)
第126話 昭和を記憶する『夢であいましょう』 (05.10.01)
第125話 『禁断の果実』を求めてジャズの茨の道へ (05.09.06)
第124話 色即是空と『グラナダ』食い合わせ (05.09.06)
第123話 『ラプソディ・イン・ブルー』の不意打ち、『草原情歌』の余韻 (05.07.05)
第122話 『何日君再来』を君と聴く日 (05.06.03)
第121話 『般若心経』を教科書で読む日 (05.05.10)
第120話 下北ノイズの生まれる街で (05.04.01)
第119話 『ホエン・アイ・ワズ・ヤング』は今歌えない (05.03.04)
第118話 ヴェトナム人が見る『ジョージア』の夢 (05.02.01)
第117話 『ゴジラ』の年からヒロシマの年へ (05.01.01)
過去コンテンツも徐々に掲載します。


大木雄高 おおきゆたか
1945年生まれ。大学時代から小劇団を組織し、60〜70年代の同時代演劇を、作・演出・役者として手がける。78年以降は定期ライブのほか、「下北沢音楽祭」、「松田優作追悼コンサート」等をプロデュース。下北沢"LADY JANE"オーナー。"音曲祝祭行"は"音曲祝祭考"としてアサヒグラフ誌に98年1月から6月まで計24回を連載していたものを、連載終了を期に装いも新たに自主制作版とWEB版で復活させたもの。



 

"音曲祝祭行"は下北沢"LADY JANE"にて月1回部数限定で発行しています。
 
 人にはそれぞれ殊の外強い記憶で残ってしまう年はあるようで、わが身の場合、近年では2004年がその年に当ったようだ。
 04年の年明けは、前号、前々号で触れたとおり下北沢の映画館「シネマ下北沢」から「シネマアートン下北沢」への引き継ぎに追われていたが、そんな1月27日。下北沢のやや古株の身として、小田急線複々線工事を、多数派だった高架化を少数派の地下化が最終的に覆したことに溜飲を下げていたが、新規道路計画や駅前のバスロータリィやら湧き起こり、きな臭い話を仄聞しながら下北沢の外側から見ていたことの反省から、世田谷区の当該部署が開いた区画開発の説明会に、北沢タウンホールに出掛けた。壇上の区側と客席の住民側は既に相容れないところまで利害は対立していて、引き継いだばかりの「シネマアートン下北沢」が補助54号線という環七幅の新規道路計画に入っていることを知った。実は予め知っていたからどんな説明をするのか聞きに行ったのだが、その計画たるや、国と都と区の三位一体のゼネコン行政の、住民の意見をまったく無視した根拠無き開発計画だった。その都市計画がマッカーサー統治時代の1946年製というから、笑いを堪えつつ、
 
米帝の奴隷国に成り下がっている
日本の現在形が漫画のように
炙り出されてくるではないか。
その上で勿論優劣はある。その後、510店舗の賛同店を得て立ち上げたわが下北沢商業者協議会は、この8月29・30・31の三日間、去年に続いて「シモキタ・ヴォイス08」というシンポジウムと音楽によるイヴェントを終えて、俺はボロ雑巾のように九月を迎えた。このくたくた加減に拍車を掛けたのが、04年の同時スタートだった「シネマアートン下北沢」の閉館後の事後対策だった。「シネマアートン」は、常にシモキタの街と共に、別の言い方をすれば、新規道路建設や地区計画の<開発>に反映して動いてきた映画館だった。
 前々号で閉館までの経緯を簡単に述べたが、その後を記しておきたい。『四畳半革命』(監督世志男)を6月14日、15日のみ上映(残りの契約期日はシネマボカンとトリウッドに代行してもらった)して終わった後は『ラストショー』や『ニューシネマ・パラダイス』、『タンゴー冬の終りに』や『魂燃え』の映像シーンが交錯しつつフラッシュバックして消えた。そして映画館の灯も消えた。数日後、元アートン出版社長の郭充良と元支配人の岩本光弘と会い、後を継いでもらえそうな新オーナーを捜す上にも、機能を停止したアートンはいち早く契約解除して後進に道を譲ることを進言した。後日色んな人たちの協力で諸方面の方が新オーナー候補として名乗りを上げた。製作、配給、上映までやる会社、映像制作会社、イベンター、ライブハウスと様々だったが「シネマアートン下北沢」と提携するなど縁の深かった制作集団P-kraftの代表福島拓哉がパイプを繋げてくれた某映画専門学校が、これ迄の映画館の性格を受け継ぐにしても、企画性、機能性、下北沢への信頼性に勝っていると判断して、まずはその学校をオリエンテーリングした。月は七月半ばになっていた。その間、アートンの再建投資ファンド会社は七月の家賃の支払いを六月末日に履行せず、08年末までの契約更新の契約を自ら破棄してテナントの権利を失効した。既に五月中だったか、アートンのメインバンクが家主の本多企画に預託しておいた保証金を差し押さえていて、社長の本多一夫の怒りと不快を買っていた。本多企画の顧問弁護士の法的な忠言を受けつつ、今日は大家に留保を願い、明日は映画学校に出向き、明後日は他の申し出に待機をお願いしてと、何の権利も利害も持ってない俺は、何を動いているのだと自らに疑念を抱きつつ「シモキタ・ヴォイス」の準備作業と共に、蠅も落とさん炎暑の下を右往左往這い蹲った。
 八月に入って、「映画館はやらない。自分で劇場にする」と決めた家主の本多一夫と再び話をした俺は、「そう決意した大きな原因は、六年後に行政から撤退命令が出ている。その時テナントがいてややこしくなりたくない」という言に説得力を感じ、最終的に退くことを決めた。備品機材の撤去期間を八月一杯もらい、岩本元支配人と点検したが、「シネマ下北沢」時代から館内の壁を飾っていた二尺×六尺の漫画絵パネルを二枚取りはずした。
 解体を待つ映写室で35mm映写機が震えていた。

 




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